2012年06月16日

渋澤健さんからの手紙


前回のメールで渋澤健さんの講義を振り返ってみました。
その渋澤さんから、先日、メールが届きました。
公益財団法人 日本国際交流センター(JCIS Japan Center for International Exchange)の理事長に就任した、というのです。

はじめ何気なく受け取ったのですが、「JCIS」をあらためて調べてみて、すごい団体だと知りました。

グラフィックス1.jpg日本国際交流センター(JCIE)──
「国際関係や地球的課題、政治・経済・社会など幅広い政策課題をめぐり、日本と諸外国の相互理解と協力関係を促進し、国際社会の発展に寄与することを目的として1970年に設立された民間の事業型財団です。東京とニューヨークに拠点を置き、国際的な政策対話・共同研究や政策提言、各種交流プログラム、企業市民活動の推進やNPO・NGO支援など、非営利・非政府としての立場から幅広い国際交流事業を実施しています」(ホームページより)

JCISが仕掛けた最初の会合が、1967年の下田会議です。米国からはマイク・マンスフィールド元駐日大使、ドナルド・ラムズフェルド前国防長官らが参加。日米両国における戦後初の民間政策対話となりました。
以来45年間、「市民外交」のエバンジェリスト(伝道師)と言われた山本正理事長の統率の下、さまざまな政策提言を行っています。
現在の理事は、安藤国威ソニー生命名誉会長、大河原良雄元駐米日本大使、小林陽太郎富士ゼロックス元会長、高須幸雄国際連合事務次長など、そうそうたる顔触れです。

渋澤健さんとは、米銀メリルリンチの社員を介して知り合いになりました。その友人が渋澤さんと投信会社であるコモンズ株式会社を立ち上げたことでさらに親しくなり、渋澤さんが静岡に立ち寄るたびに会食をするようになったのです。歳は一回り以上離れていますが、何となく気が合うんですね。
「山田経営維新塾」を開くと決めた時、「特別講師として来てくれませんか?」とお願いしてみました。渋沢栄一翁の5代目は、翁の笑顔もかくやという感じで、快諾してくれたのでした。
そして今回、わたしの2冊目の著書『“非常識”社長の「維新」を起こす経営』(ミーツ出版)の出版を記念して行うパーティーの発起人代表をも務めて下さることになりました。


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一般社団法人「山田経営維新塾」
HP : http://www.yamadajuku.jp/
Blog : http://yamada-hisao.seesaa.net/

山田経営維新塾メールマガジンバックナンバー
http://yamadajuku.blogspot.jp/

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2012年06月14日

静岡新聞3週連続ベストセラーランキング第一位を獲得する事が出来ました

わたしの2冊目の本
「“非常識”社長の『維新』を起こす経営」(ミーツ出版)
が、おかげさまで昨日の静岡新聞の読書欄『今週のベストセラー』
3週連続で1位
を獲得する事が出来ました。

皆さんの応援の賜物です。
そして沢山のメッセージありがとうございます。
皆様の感想や応援を大切に読ませて頂き、皆様のお言葉に改めて身が引き締まる思いです。
そして本当に「感謝」申し上げます。
ありがとうございました


ベストセラーランキング2.jpg


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「非常識社長の維新を起こす経営」
アマゾンにてご予約可能
発売日には、お近くの書店でもお買い求め頂けます。
http://www.amazon.co.jp/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E8%AD%98%E7%A4%BE%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%82%92%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%99%E7%B5%8C%E5%96%B6-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%A3%BD%E9%9B%84/dp/4896102347/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1336989767&sr=8-1


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社団法人「山田経営維新塾」

事務所住所
〒420-0034 静岡市葵区常盤町一丁目
8番地の6アイワビル7F
事務局(担当:岡田)yamadajuku@live.jp
塾長:master@yamadajuku.jp
電 話    054-653-3607
ホームページ http://www.yamadajuku.jp/
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2012年06月09日

なぜ今、渋澤栄一か パート2


前回は渋沢栄一翁を紹介するだけで終わってしまいました。
今回は、渋澤健さんの講義を振り返ってみます。
澁澤健さんは言います。「歴史は繰り返さないが、波のようなうねりがある」と。
その上で近代の歴史を1990年から30年ごとに遡(さんのぼ)って示してくれました。

1990年→1960年 高度成長の時代。ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ繁栄した30年。
1960-年→1930年 破壊された30年。太平洋戦争があり、空襲で焼け野原にされ、原爆を2つも落とされた。終戦を迎える1945年までの15年間は、結果的にみるとまことに悲惨な失われた15年でした。
1930年→1900年 近代日本の構築期。不平等条約改正に向けて、国を挙げて西欧化を図っていた時代。この時代は自信が芽生えてきた勃興期であります。
1900年→1870年 1868年、日本は明治維新を迎えました。1853年の黒船来航から、最後は鳥羽伏見の戦いまで激しい抗争の時代を15年も経ての「近代化」の夜明けです。「維新」は「これ新たなり」という意味ですから、明治維新となって一気に明るくなったようにわたしたちは感じていますが、この時代は旧弊を破壊し新しい制度を作っていく“破壊”の時代でした。1877年(明治10年)には西南戦争が起きています。維新の立役者、西郷隆盛を斃(たお)す戦いだから「内戦」です。明治政府がこれを抑え、ようやく日本は安定期を迎える準備ができたのです。大日本帝国憲法発布は1889年、議会政治にこぎつけるまでさらに12年を要しています。ようやく落ち着きかけたときに清国との戦争(1894年)。旧秩序の完膚なき破壊と、近代化の礎たる「建設」(建物も制度も)が交錯したまことに壮絶な時代でありました。

30年と言うと「一世代」でしょうか。ここまで、破壊→繁栄→破壊→繁栄と来て、次の30年(1990年→2020年)はどうやら「破壊の時代」。すでに22年が経っています。バブルの絶頂期が1990年(ちなみにベルリンの壁が崩壊し東西ドイツの統一が成ったのがこの年)、そこから22年間の長い下り坂が続いています。あと8年間、どんな破壊があるのでしょう。次の時代へ、繁栄の芽を掴むことができるでしょうか。
澁澤健さんは、「原点に還(かえ)れ」と言います。
澁澤さんの原点とは「渋沢栄一」です。
健さんから5代前の渋沢栄一は、1840年(天保11年)から1931年まで、江戸・明治・大正・昭和と4つの時代をまたぎ91歳の長寿を全うしました。1931年と言えば満州事変が勃発した昭和6年です!
先の30年1区分説で言えば、健さんが例示されたさらに30年前、江戸幕府最後の繁栄期に栄一は青春を送り、尊王攘夷からやがて開国へと向かう維新前史で血が沸き立つような経験をしました。そして明治、大正期、日本がまだ「経済」という言葉さえ知らず、仕組みもわからなかった時代に経営の才を見せ、獅子奮迅、近代日本の基を築いてきたのです。

前回、渋沢栄一は侍出身ではなかったものの、心意気の点ではサムライそのものでした。心にあるのは「わたくしの利益」ではなく、西欧列国に伍していく近代日本の建設です。しかも有司専制(政府の中枢=維新の立役者である少数の政治家が議会に諮らず物事を決めていく状態)の時代に、政治家でも高級官僚でもない、一民間人の渋沢が、実業を興すことで国が進むべき道を拓(ひら)いていったのです。維新の創業に心ならずも後れをとった自分の「運」を逆手に取るように、野に在りながら既成概念や政治の思惑にとらわれることなく、次々と新しい会社、産業に手を染めていったのです。
実力的に言えば、大三菱を創業した岩崎弥太郎に引けをとらなかったでしょう。しかし渋沢家は、健さんを見ても財閥にはほど遠い財産しか持っていません。お金を稼ぎ、個人の富を増やすことが幸福であるとは思っていなかったからでしょう。
そのことを澁澤健さんは「論語と算盤」という渋沢栄一の言葉を使って説明しています。1人が富豪になることにより、社会の多数が貧困に陥るとすれば、それは持続性のある社会(サステナブルな社会)ではない、と。1人が富んでもそれは「最大多数の最大幸福」にはつながらないということです。今の政治家や経営者に渋沢さんの爪のアカを煎じて飲ませたいくらいです。
渋沢栄一は稀代の警世家でもあります。
「元気振興の急務」と言ってますね。人間はとかく枠の中に閉じこもりたくなる。中にいる方が慣れているし安全に思える。しかし、枠から飛び出さないと枠そのものが小さくなっていることに気がつかない。
「大正維新の覚悟」などとも言います。大明治が終わると大正モダニズムが花開き、一見豊かな時代を迎えたように思えるけれども、実態は『守りに入っている』と見ます。保守退嬰(たいえい)の風。「このまま行くと将来、大いに憂うべき結果が生じないとも限らない」と警告しました。

では、新しい時代に求められるリーダーシップとは何でしょう。
一言でいえば「知・情・意」です。澁澤健さんは『オズの魔法使い』を例に引き、その点を説明してくれました。ドロシーを助ける“3人”、かかしはワラで出来ているので「頭」がない、ブリキの木こりは空洞だから「心」がない、そして臆病なライオンは「勇気」を持ち合わせていない。足りないもの、それは知・情・意です。3人はドロシーを助けることで欠けていたものを取り戻します。
これは、リーダーは知・情・意のどれ一つを欠いてもダメなことを象徴している話です。しかも、誰かにやってもらうのではなく、一人ひとりが知・情・意に基づいて自ら行動を起こさなければならないのです。
明治の人と現在の日本人とDNAが異なるわけではない。素質はあるけれども、今はスイッチがオフになっている。眠っている可能性にスイッチを入れなければなりません。
──行動を起こす条件とは?
澁澤健さんはこれも論語を引き合いに出して説明してくれました。
知之者不如好之者
好之者不如樂之者
(これを知る者はこれを好む者に如かず
 これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)
行動を起こすためには、@物事を深く知ることが大事です、Aしかし単に知るだけでは足りません。好きであることの方が大事で、工夫はその中から生まれます。Bさらに、好きであるだけでなく「楽しめる心境」になれれば鬼に金棒。

歴史は繰り返しません。しかし波がうねり伝わるように、歴史を少し高い視野から見れば次の時代状況を予測することができます。
原点回帰は「リセットする」という意味です。しかし、すべて旧に復すればよいということではなく、歴史に学んだ経験を生かして知・情・意を総動員して自ら行動すること。
経営者が心に刻んでおかなければならない教えです。
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2012年06月04日

なぜ今、渋澤栄一か

なぜ今、渋沢栄一か

山田経営維新塾3回目の講義にお招きしたのはコモンズ投信株式会社の渋澤健さんでした。
明治時代、日本の資本主義がまだよちよち歩きの時代にその基礎を築いた渋沢栄一翁の玄孫(やしゃご)と言った方が分かりやすいかもしれません。
維新塾の塾生は、もちろん「渋沢栄一とは何か」を予習してきていますよね?

渋澤さんは投資信託を運用していますから、バリバリ現役のビジネスマンです。 “生き馬の目を抜く”と言われる世界、株や債券、為替は国際化していますから24時間市場が眠るときはありません。厳しいマネーの世界を生きています。でもどうでしょう、そんなピリピリした感じがしたでしょうか。急ぎ足で塾生たちに伝えたかったのは、「マネーに生きるとは何か」ではなく、「現代に生きる渋沢栄一」でありました。

渋沢栄一は江戸幕末、農家の生まれだと言われます。しかしわたしが翁から感じるのは、烈々たる古武士の風格です。
元々が尊王攘夷の志士になろうとした人です。黒船来航。江戸幕府は列国(特にアメリカ)の強圧を恐れ外交で妥協を重ねます。異国、何するものぞ、日本中の有意の人たちの意気が沸騰しました。若き栄一もその一人。幕府は井伊直弼が大老になり攘夷論を力で抑え込もうとする(安政の大獄)。この頃渋沢らは、高崎城を乗っ取り、その勢いで横浜を焼き討ちして外国人をなで斬りにするという信じられないような計画を立てています。熱い熱い倒幕の思いというのでしょうか。無論、死ぬ覚悟をもっての計画です。

幸運なことに、この計画は日の目を見ることなくとん挫しました。逃亡浪人の日々の中で、伝手を頼って仕官したのが徳川慶喜公(最後の将軍になった人)です。運命のいたずらというのか、こと志しとさかさまに腐った幕府を支える側に回るのです。しかし公が将軍職を引き受けようというときには、筋を通して大反対。腐った大樹は滅びるままにするがいい、下手に火中の栗を拾うと公自身が大やけどをするという読みです。しかしその説得は功を奏さない。今日やめようか、明日やめようかと思案しているときに降ってわいたのがフランス洋行の話でした。慶喜公の弟、幼年の昭武(後に最後の水戸藩主になる)の養育掛かりとしてパリ万博に出向き、その後、留学生活の供をせよとのお達しです。勇躍、ヨーロッパに向かいます。
在仏中に徳川幕府は大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いを経て幕府崩壊、明治新政府誕生となりました。渋沢栄一と言う人、運がいいのか悪いのかさっぱりわかりません。
一つだけ言えるのは、いつでも冴えわたっていたのは「経済・経営の才」だということ。

帰国後、栄一は慶喜公が逼塞(ひっそく)する静岡に向かいます。ここで取り組んだのが「商法会所」の設立。明治新政府の発行する新紙幣を使って物産を買い、後にその物産を売って利益を得るという戦略的な組織。新紙幣には信用がないからやがて物価は上がる。そこで売り抜ければ…、という商才が見事に当たるわけです。新政府から押しつけられた紙幣を活用したのは静岡藩だけだった、と言われています。

やがて栄一は新政府に引き抜かれて大蔵省に出仕。大阪造幣局の創設や公債の発行など貨幣改革をやってのけた後、民間に下ります。元々が攘夷の志士あがり。運命のいたずらで最後の将軍に仕えたものの、心は『この国のために尽くしたい』。しかし、新政府創建では立ち遅れてしまった。後塵を拝するのは潔しとしない。
と言うわけで、心はやはり「野に在り」となります。

明治政府は中央集権政府であり、有司専制ですから“人材”は官に集中、民間にこれぞと言った人がいないわけです。政府がいろんな施策をして国を富ませたいと思っても、民間の実戦部隊がいない。そこで渋沢翁が次々と新規事業立ち上げにかかわっていきます。

結果、手掛けた会社は470以上にも上りました。日本初の銀行・第一国立銀行をはじめ東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、京阪電気鉄道やキリンビール、サッポロビール、東洋紡績などなど。今に残る名門企業が多い。それに加えて、東京証券取引所なども創設している。マネーの流れに株式は不可欠、ということをこの時代に見抜いていました。だから「株式会社の祖」なんですね。結局、渋沢翁がやったのは「日本資本主義の基礎工事」です。つくった会社は株式会社もあれば組合もある、合資会社もありますが、総じて「日本資本主義の父」と言われます。

渋沢栄一の事績を説明しているうちに、メルマガの紙数が尽きてしまいました。
ここには書きませんでしたが、渋沢栄一は武士ではないのに『斬るか斬られるか』の強談判(こわだんぱん)を何度かやっています。そういうところにわたしは渋沢の「反骨精神」を強く感じます。そしてその人がたまたま、人に抜きん出て計数に強かった。しかも中央精神(立身出世主義)ではなく、心は在野にあった。この時代、ややもすると「経済」は「もうけること」と同視され、一段も二段も低いものと思われていた。しかし富国のためには経済の基盤はなくてはならなかった。そういうときに「渋沢」という特異な個性の人が「民の側」にいた。明治と言う時代の幸運を、そんなところにもわたしは見るのです。
posted by 山田壽雄 at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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